人の名前と記憶のメカニズム

 人の名前を覚えるのが苦手だ。

 中高の頃、同じクラスの人名と顔はさすがに覚えたが、隣のクラスとなると分からない人が沢山いた。校舎も違うクラスの人のことを同じクラスの人のことのように話す友人を、どうしてそんな離れ業ができるのかと思いながら眺めていた。

 社会に入って仕事で人に会うようになると、貰った名刺の裏にその人に関連する情報を書き込んで、後で見て顔と名前を一致させられるようにしていた。顔はなんとなく覚えても、名前をすんなりと覚えられないのだ。それでも、漢字とは便利なもので、正確な名前を思い出せない時でも、確か字面がこんな感じだった、とぼんやり思い出せることも多い。

 だが、渡英してからはそうはいかない。更に、「ジョンさん、そう思いませんか?」のように、会話の合間に相手の名前を挟んでいくのが(必須ではないが)丁寧だとされる文化圏である。相手の名前を思い出せなくても一時間以上会話を進めることも可能な日本とは訳が違う。人の名前はきちんと覚えねばならない。私のように人の名前を覚えるのが苦手な人間には結構プレッシャーである。

 さらに、ファーストネームは聞いても姓は知らないというケースも多い。というかカジュアルな挨拶はこのケースがほとんどだ。となるとファーストネームだけなので、覚えるのは簡単だろうと思いきや、これが手掛かりが少なすぎて逆に覚えづらい。日本のように字面で覚えるという手もきかない。会った直後は覚えていても、その後きれいすっかり忘れてしまったことも多い。

 人の名前に関して一番神経を使うのが、夫婦同席でディナー等に招待された時である。他にも招待客がいると、それぞれのカップルの名前も憶えないといけないし、ホストの子供の名前も一応覚えなければならない。ペットの犬や猫も紹介されることもある(笑。グラスを重ねるうちに誰の名前がなんだったか思い出せなくて、家人に耳打ちして教えてもらうことも多い。こんな調子だから、私は外交官やその家族として勤めるのはまずムリである。

 また私の場合、当然ながら日本人としてある意味目立つため、相手が私のことを覚えていてくれて後日声をかけてくれても、私の方でその人の顔すら覚えていなくて、相手に気まずい思いをさせてしまったこともある。これは名前を覚えられない以前の問題だが。私は事件の目撃者としてもきっと使い物にならないのだろう。

 やっと英国の人名を覚えるのがそれほど苦ではなくなったかと、ふと気が付いたのは、渡英後5年以上たった頃だろうか。慣れと行ってしまえばそれまでだが、実は記憶のメカニズムが微妙に変わったのではないかと、個人的には思っている。なぜなら、表意文字である漢字の字面で覚えるというのは、名前(の読み)自体だけでなく、使われた漢字自体の意味や形という、付加情報も加えて記憶しているのに対して、アルファベットの人名はほぼ読みという情報しか含まれないからだ。もちろん、聖書や物語、小説などにでてくる人名ではそれと絡んで記憶するということもできなくはないが、例えば「ジョン」や「ピーター」は一般的に使われすぎているため、いちいち聖書と絡めて覚える名前ではなくなってる。つまり、付加情報はないと言っていいだろう。英国で多いインド系の名前も、意味が分からない日本人に記憶されるのは名前の読みだけである。

 以前と比べて人の名前を覚えるのが得意になったとは特に感じていない。英国での人名記憶に関して苦手意識が消えたという認識だ。それでも、今日本に帰国しての人名記憶と昔のそれとを比較したら、違いが出るのかどうか、少し気になる。他言語におけるこういった記憶のメカニズムについての調査結果があれば、見てみたいものだ。

イギリスの食材・肉編 - ラム・ネック

 イギリスに暮らし始めて間もなくの頃、これは美味しい!と思ったものが二つある。一つはじゃがいも。もう一つがラム肉だ。

 このブログでも初春に何度か子羊の記事を書いているが、英国全土で羊の放牧は一般的で、少し田舎に行くと緑色の牧場に白い羊が点々としているのを見ることができるし、パブやレストランでも牛肉、鶏肉、豚肉に加えて、ラムもごく普通にメニューに載っている。スーパーでも普通に手に入るラム肉は、英国では一般に親しまれている、ごく普通の食材だ。

 ここで、日本では羊肉というと一般的にマトンが思い浮かばれるが、英国で食されるのはラムだ。マトンが一年以上の大人の羊肉に対して、ラムは一年以下のまだ若くて幼い羊の肉。マトンに比べて肉質が柔らかく、マトン特有のにおいもない。

 どこ産のラムも普通に美味しいが、牛肉はスコットランドのアバディーン州で産される牛肉が有名なように、ラムはウェールズ産のものがウェルシュ・ラムと呼ばれて、美味しいとされている。

 日曜日のロースト料理では、ビーフやチキンのほかに、ラムの脚もよくローストに使われる。ラム・チョップでもそうだが、ラムのローストにはミントソースが欠かせない。ラムは比較的脂が強いが、ラムの肉の風味と脂も含んだジューシーな肉にすっきりさっぱりとしたミントソースの風味がよく合うのだ。ラム・ローストはまだ比較的日本でもなじみの薄い料理だと思うが、イギリスで最初に食べた時に、なんて美味しい肉だろうかと、ラム肉の旨さに開眼したのである。

 今回のお題であるラムの首肉は、肉屋はもちろん、少し気が利いたスーパーの肉カウンターでも手に入る食材だが、まだまだ一般的にはマイナーな部位だと思う。私は見慣れない食材を見ると買いたくなる質なので(笑、初めて肉屋で目にした時に即購入したのだが、ラムの首フィレ肉は思ったよりも高かった。シチューにするとうまいよ、という肉屋のおやじさんの言葉を頼りに、それなりのお値段を払った(といってもたかがしれてはいるが)肉を旨い料理にするべく、とりあえず煮込みにしてみようと取りかかったのが下の図である。


美味しいシチューに生まれ変わる前のラムの首フィレ肉

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 これが、実に美味しいシチューだった。首肉という部位柄、もしかすると筋っぽかったりするのかと思ったが、そもそもそんなに固くない肉質らしい。弱火で比較的長い時間煮込んだのも功を奏したのか、ほろりと崩れながらもしっかりとうま味を保持している肉と、肉からでたうま味がしみ込んだ野菜が美味で、家人共々美味しいおいしいと、あっという間に食べてしまった。肉の風味も、なんというかうま味の中に甘味を感じる肉という印象だ。

 煮込むほかにもオーブンでローストしたりと、料理方法が色々とあるようだが、我が家ではラム首肉は今回ヒットした煮込みで今後しばらくアプローチすることになりそうだ。ラムの首フィレ肉、在英でまだ食べたことのない方は、是非トライしてみることをお勧めしたい。

ブログ考 2016

 実はこのブログの他にも複数のブログを持っている。

 このブログ一つもまともに更新できてないのに、そんなに作ってどうする、と言われると全くその通りなのだが(汗、複数のブログを持つにはそれなりの理由がある。

 まず、ブログというメディアは便利なもので、文章、写真やウェブサイトリンクと、様々な部品を自由に組み合わせて書きたいことを表現できるのが、私にはとても使い勝手が良い。今は様々なSNSが出ているが、Twitterでは文章が短すぎるし、Instagramはユーザーにかなり偏りがあると感じる。Facebookは基本的に知人友人向けのメディアとして開発されたのがそもそもだから、不特定多数に発信するツールとしては(そいう使い方もできなくもないが)使えない。他にも色々あるが、ここではおいておく。反面、特に私のブログは全て不特定多数向けにオープンになっているので、友人知人だけでなく、時々こんな検索でひっかかるのかと驚くようなキーワードがきっかけで私のブログを訪れている一見さんもたまにいらっしゃり、それはそれで嬉しかったりする。

 だから私にとってブログというメディアは、友人知人でない不特定多数の「お客さん」にも見てもらっているものだという意識を与えてくれ、またそういう意識ができるから、あまりいい加減なものは出せないし出したくないという考えにもつながる。これがいい意味で背筋を伸ばしてくれる。数あるへなちょこブログの一つだから、実際の読者数はここでは関係ないのだ(笑。
 既存のSNSではこういう使い方と効用は、今一つ期待できない。

 それにしても、複数のブログの使い道である。いくつあるかはここでは敢えて言わないが(笑。

 ここで一旦考えてみてほしい。
 仮に、ある人の週末の趣味がドライブとゴルフとランニングで、夜はオンライン・ゲーム。スキューバダイビング免許も持ってるし、エスプレッソ・コーヒーにはちょっとうるさい。酒も好きであちこちのバーを探検し、夜はジャズを聞きながらシングルモルト・ウィスキーをロックで楽しむが、実はアングラ・アイドルもチェックしているし、ライブの後に行くケーキやパフェの美味しい店もリストアップしている。茶道と書道もたしなみ、オペラも観るが、落語と歌舞伎観劇も欠かせない。たまに自分で釣った魚を家庭菜園の野菜と一緒に料理して、友人にふるまいながら最近の海洋考古学的発見について議論する。
 まぁ、こんな人が実際にいるかどうかは別として。

 当然ながら私のことではない(爆。でももしこんな人がいたら、全ての趣味・関心に対応できる友達を探すより、各アイテム毎に興味関心を共有できる人々を探すだろう。また上記の例ほど大げさでなくても、実は普通の人も結構沢山の趣味や関心事を持っているもの。仕事や子育て(最近は介護も)関連のトピックは、一般的に趣味とは呼ばれないけれども、関心や知識を共有できる人となると、範囲が限られてくるはずである。

 私のブログもそれと同じで、各ブログ毎にテーマを決めてあり、そのテーマに興味のある(仮想)読者を対象に、基本的にそのテーマに沿ったこと以外は書かないことにしている。海外のゲーマー仲間に向かって歌舞伎の話を持ち掛けないのと似たようなものだ(笑。

 一旦そういう風に決めたら、気が楽になった。一つのブログに自分の全てを詰め込む必要がないからだろう。正直、色々と関心のあるトピックをどうやってこのブログに書いていこうかと、初期は少し悩んだ時期もあったのだが、単純に分ければいいんだと気が付いた次第である。これは、言うなれば自分の中の異なるペルソナをそれぞれのブログに向かって開放するようなものだ。

 実際にテーマを決めて複数のブログを作ること自体にもメリットがあった。各テーマを決めるためには、それまで漠然と興味のあるエリアを具体的に切り出す作業が最初に必要となる。だから自分の興味のある分野がよりはっきりしてくる。そして具体的にブログというアウトプットを出すことで、それぞれの分野の知識や技術を磨こうという意識もより明確になる。各分野ごとに狭く深く書くことで、書く際にも意識的に集中しやすい。

 本ブログは…、「徒然」とタイトルにる通り、今回のような英国にも関係ないことを色々と書かせてもらっている(笑。そのうち英国に関するネタも、また色々と、沢山、お話ししたいと思っている、次第だ。はい。

 それにしても、最近日本語で文章を書く際に、無意識に英語で作った文章を日本語で翻訳している自分がいる。昔は、「こういう日本語の言い回しって、英語で無いんだよねー」と思っていたのが、最近、「こういう英語の言い回しって、日本語でどう言ったらいいんだっけ?」と思っている自分がいる。そろそろ英語のブログを作る時期になったのか…?

初、映画出演!(我が家の犬が、ね)

 我が家の黒ラブ犬二頭がなんと映画に出演し、その映画のワールド・プレミア上映会に招待客として行ってきた。

 と言っても、莫大な予算をもってして作られるハリウッド映画に出演した訳ではない。色々あって、イギリス湖水地方を舞台にした低予算映画の端役で出演することになったのだ。

 撮影は2014年の夏だったから、何か月かの長期編集期間を経てやっと2016年1月の初上映会に至ったわけだから、考えてみれば映画作成とは根気のいる作業である。脚本も若い監督が書いたものだから、筋書の構想から数えれば、もっと長い時間がかかっているはずだ。

 当然ながら我が家の犬達は名犬ラッシーでもなんでもないので、もらった役回りもあくまで端役。実際の映画での出演時間は30秒にも満たないものだったが、実際の撮影は午後いっぱいかかったのを覚えている。筋書の中でも鍵となるキャラクターを、森の中であちらへこちらへと追い回すというシーンをいくつも撮影したのだが、「よーい、スタート!(英語で)」での掛け声で俳優さんが動き出し、別途犬たちへのキューが出るのを待ってから犬を狙った方向に全速で走らせるという、言うはたやすいが実際はなかなか大変な撮影だった。あちらこちらへと走らされて、最後は犬たちも疲れてしまったくらいだったから、走らされる俳優さんの疲労は言わずもがなだろう。

 映画の撮影現場に立ち会うのはもちろん初めてだったが、撮影の舞台裏を見るのも興味深かった。小規模な映画撮影とはいえ、監督に助監督、カメラ撮影が二名、音声担当、小物や衣装の担当、メイクアップ担当など、かれこれ7、8名いたと思う。当然これに加えて俳優さん達がいて、さらに場合によっては私と家人のような、特定の場面のみに必要となる人々も加わるわけだから、映画の撮影とは大変なものである。

 撮影が終わってお疲れさまと現場を離れる際に、助監督から「あの、プロのドッグ・ハンドラーの方達なんですよね?」と尋ねられたのは、嬉しい驚きだった。それだけ犬がよくコマンドに従ってきちんと動いていたということを感心してもらったようなのだが、ドッグ・トレーナーでも何でもない普通の犬の飼い主としては、こういう風に言ってもらえるのはやはり誇らしいものだ。

 世界初!の映画上映会で我が家の犬達が大きなスクリーンに大写しになったのを見るのは、飼い主として単純にうれしいと共に、そういった撮影時のエピソードが思い出された。

 映画の最後のクレジットには私と家人の名前が「ドッグ・ハンドラー」として載ったので、現在友人たちには我が家の犬たちは「映画スター」、我々は「ドッグ・ハンドラー」と呼ばれている(笑。

英語、外来語、カタカナ英語、そして和製英語

 普段の生活は100%英語で過ごしているので、日本語に触れるのはインターネットで日本語の記事を読む際だけである。たまに日本の家族に電話を掛けたり、日本語でメールを書いたりする以外は、自発的に日本語で書いたり話したりする機会が全くない。また、最後に帰国したのが2012年の夏で、それからかれこれ2年半経つから、新鮮な「今の」日本語に触れなくなってしばらく経つ。

 海外生活が長くなると、否応なく日本での流行や流行りの言葉に疎くなってくる。流行りの言葉も、ネットに(かつ私が目を通すサイトに)浮上してくると、流行り言葉として認識できても、その意味をくみ取るのが難しかったりする。流行り言葉というのは面白いもので、もともとその言葉と用途が生まれた文脈を知らないと、本当の意味を共有できないのことが多い。一番いい例がテレビのコマーシャルや広告などから派生したもので、これは年代によって見ていたテレビ番組によって、世代間ギャップが生まれるのが同じで、元ネタを見ていないとどうしてもその言葉の含有するニュアンスや雰囲気まで楽しんだり共有したりということができない。

 他の流行り言葉としては、英語が元ネタになった言葉も多い。例えば、「ディスる」という言葉。2015年からネットで見かけるようになった言葉だが、相当な数の用例を読むまでその意図する意味がよく分からなかった。この言葉は今に至るまでも敢えて検索していないのだが(笑、恐らく、「悪し様に言う」、「良いことを言わない」といった意味合いで使われていると解釈している。

 「ディスる」の元になったと思われる、"Dis"という英語の接頭語(接頭辞)も、もっと元をたどればラテン語由来である。英語、フランス語やイタリア語等の知識が多少ある人ならば、この接頭語から「ディスる」の意味を推測することも可能だが、そうでなければこのカタカナだけをぱっと見て意味を推し量ることは不可能だろう。

 外国語が元になった流行り言葉は、普通の日本語会話の中で使われるようになった途端、その由来は忘れ去れれて、日本語の言葉の一つとして使われるようになる。こうして入ってきた言葉(ここで一旦、外来語と呼ぶことにしよう)には、その後の変遷に異なる路があると思う。一つはカタカナ英語として使われる場合。「レスペクトする」という言葉がいい例だろう。元の英語の言葉や意味はほぼそのままに、(当然ながら)日本語のカタカナの発音で使われるものだ。もう一つが和製英語である。「ディスる」という言葉は和製英語の一派に分類できると思われるが、日本語の文脈のなかで使われていくうちに元の外国語にはなかった形(例えば省略形)、また異なる意味合いで使われるようになったものだ。和製英語は、日本人が和製英語だと認識していない場合が多く、元の言語(多くの場合、英語)で使おうとしても本人が意図する意味では全く意味が通じないケースが多々ある。ひどい場合には、もともとの言語に言葉として存在しないということもある。上記、異論もあるかもしれないが、私個人の分類である。

 私のような海外在住者とっては、後者の和製英語が曲者なのだ。日本語を英語の両方を解するにも関わらず、この和製英語の意味が分からないという、なんとも奇妙な状況に陥り、その不思議な状況故に苦笑させられてしまう。

 誤解しないで欲しいのが、私はここで、和製英語の是非について論じるような気はさらさらなく、逆に海外に暮らしている日本人として、日本語の変遷の様子を少し俯瞰しながら興味深く見ているというのが正確なところだ。私は言葉は生き物、少しずつ、なおかつ確実に変化するものと理解している。脇道にそれるが、漫画や習慣雑誌から国語辞典に載せたい言葉を探すというこの記事は、動き変わる言葉や新しい言葉をすくい上げるアプローチの一つとして、大変興味深いものだと思う。

 カタカナ英語や和製英語について考える時にいつも思い出すのが、私の祖父である。神田生まれ、神田育ちの江戸っ子で、技術者だった。存命していれば今年2016年に100歳になるが、あの年代には珍しく、私とは違って英語に加えてドイツ語もでき、ヨーロッパを一人で周遊旅行したりした人だ。また中国語は読書きができて、よく中国人の友人に中国語で手紙を書いていたのを覚えている。この祖父が、私が大学生だった1990年前半当時80歳は優に超えていたが、ちゃきちゃきの江戸っ子なまりでの電話での大学時代の友人との会話の中で、「あいつはオミットしよう」と言ったのをよく覚えている。当然ながら、当時の若者(私)は全く使わない言葉だが、文脈からすると、「あいつは無視しよう」という意味で使っていたようだ。また、たまにではあるが、ドイツ語がカタカナ英語(カタカナ独語というべきか)的に祖父の日常会話に出てきたのを覚えている。これは明治・大正時代の日本文学作品でもたまに見られるもので、当時の国際関係を背景に、ドイツ語習得者が日本のインテリ層に多かったことをうかがわせる。更に考えてみると、当時外国語を日常会話に取り入れるというのは、それこそハイカラの極致であったろうし、インテリだけがその意味を解せたわけだから、知識をひけらかすようなニュアンスもあったはずだ。

 また少々脇道に逸れたが、何が言いたかったかというと、「ディスる」を初めてネット上で聞いた(読んだ)時の驚きとまたその意味不明感に眉根にしわが寄る感じと、祖父の「オミットする」という言葉を聞いた当時の「なにそれ?」と思った感覚は、時代と言葉と使っている人の年代こそ違っても、全く同じなのだ。当然といえば当然なのだが、なんだか面白いと思う。

 だからこれからも新しい和製英語を見るにつけて「なにそれ?」と眉根にしわを寄せて困惑こそすれ、海外生活が始まった10年以上前から変化が止まった私の日本語をある意味指標として、これからの日本語の変遷をおもしろく観察していきたいと思うのである。