2016年01月

初、映画出演!(我が家の犬が、ね)

 我が家の黒ラブ犬二頭がなんと映画に出演し、その映画のワールド・プレミア上映会に招待客として行ってきた。

 と言っても、莫大な予算をもってして作られるハリウッド映画に出演した訳ではない。色々あって、イギリス湖水地方を舞台にした低予算映画の端役で出演することになったのだ。

 撮影は2014年の夏だったから、何か月かの長期編集期間を経てやっと2016年1月の初上映会に至ったわけだから、考えてみれば映画作成とは根気のいる作業である。脚本も若い監督が書いたものだから、筋書の構想から数えれば、もっと長い時間がかかっているはずだ。

 当然ながら我が家の犬達は名犬ラッシーでもなんでもないので、もらった役回りもあくまで端役。実際の映画での出演時間は30秒にも満たないものだったが、実際の撮影は午後いっぱいかかったのを覚えている。筋書の中でも鍵となるキャラクターを、森の中であちらへこちらへと追い回すというシーンをいくつも撮影したのだが、「よーい、スタート!(英語で)」での掛け声で俳優さんが動き出し、別途犬たちへのキューが出るのを待ってから犬を狙った方向に全速で走らせるという、言うはたやすいが実際はなかなか大変な撮影だった。あちらこちらへと走らされて、最後は犬たちも疲れてしまったくらいだったから、走らされる俳優さんの疲労は言わずもがなだろう。

 映画の撮影現場に立ち会うのはもちろん初めてだったが、撮影の舞台裏を見るのも興味深かった。小規模な映画撮影とはいえ、監督に助監督、カメラ撮影が二名、音声担当、小物や衣装の担当、メイクアップ担当など、かれこれ7、8名いたと思う。当然これに加えて俳優さん達がいて、さらに場合によっては私と家人のような、特定の場面のみに必要となる人々も加わるわけだから、映画の撮影とは大変なものである。

 撮影が終わってお疲れさまと現場を離れる際に、助監督から「あの、プロのドッグ・ハンドラーの方達なんですよね?」と尋ねられたのは、嬉しい驚きだった。それだけ犬がよくコマンドに従ってきちんと動いていたということを感心してもらったようなのだが、ドッグ・トレーナーでも何でもない普通の犬の飼い主としては、こういう風に言ってもらえるのはやはり誇らしいものだ。

 世界初!の映画上映会で我が家の犬達が大きなスクリーンに大写しになったのを見るのは、飼い主として単純にうれしいと共に、そういった撮影時のエピソードが思い出された。

 映画の最後のクレジットには私と家人の名前が「ドッグ・ハンドラー」として載ったので、現在友人たちには我が家の犬たちは「映画スター」、我々は「ドッグ・ハンドラー」と呼ばれている(笑。
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英語、外来語、カタカナ英語、そして和製英語

 普段の生活は100%英語で過ごしているので、日本語に触れるのはインターネットで日本語の記事を読む際だけである。たまに日本の家族に電話を掛けたり、日本語でメールを書いたりする以外は、自発的に日本語で書いたり話したりする機会が全くない。また、最後に帰国したのが2012年の夏で、それからかれこれ2年半経つから、新鮮な「今の」日本語に触れなくなってしばらく経つ。

 海外生活が長くなると、否応なく日本での流行や流行りの言葉に疎くなってくる。流行りの言葉も、ネットに(かつ私が目を通すサイトに)浮上してくると、流行り言葉として認識できても、その意味をくみ取るのが難しかったりする。流行り言葉というのは面白いもので、もともとその言葉と用途が生まれた文脈を知らないと、本当の意味を共有できないのことが多い。一番いい例がテレビのコマーシャルや広告などから派生したもので、これは年代によって見ていたテレビ番組によって、世代間ギャップが生まれるのが同じで、元ネタを見ていないとどうしてもその言葉の含有するニュアンスや雰囲気まで楽しんだり共有したりということができない。

 他の流行り言葉としては、英語が元ネタになった言葉も多い。例えば、「ディスる」という言葉。2015年からネットで見かけるようになった言葉だが、相当な数の用例を読むまでその意図する意味がよく分からなかった。この言葉は今に至るまでも敢えて検索していないのだが(笑、恐らく、「悪し様に言う」、「良いことを言わない」といった意味合いで使われていると解釈している。

 「ディスる」の元になったと思われる、"Dis"という英語の接頭語(接頭辞)も、もっと元をたどればラテン語由来である。英語、フランス語やイタリア語等の知識が多少ある人ならば、この接頭語から「ディスる」の意味を推測することも可能だが、そうでなければこのカタカナだけをぱっと見て意味を推し量ることは不可能だろう。

 外国語が元になった流行り言葉は、普通の日本語会話の中で使われるようになった途端、その由来は忘れ去れれて、日本語の言葉の一つとして使われるようになる。こうして入ってきた言葉(ここで一旦、外来語と呼ぶことにしよう)には、その後の変遷に異なる路があると思う。一つはカタカナ英語として使われる場合。「レスペクトする」という言葉がいい例だろう。元の英語の言葉や意味はほぼそのままに、(当然ながら)日本語のカタカナの発音で使われるものだ。もう一つが和製英語である。「ディスる」という言葉は和製英語の一派に分類できると思われるが、日本語の文脈のなかで使われていくうちに元の外国語にはなかった形(例えば省略形)、また異なる意味合いで使われるようになったものだ。和製英語は、日本人が和製英語だと認識していない場合が多く、元の言語(多くの場合、英語)で使おうとしても本人が意図する意味では全く意味が通じないケースが多々ある。ひどい場合には、もともとの言語に言葉として存在しないということもある。上記、異論もあるかもしれないが、私個人の分類である。

 私のような海外在住者とっては、後者の和製英語が曲者なのだ。日本語を英語の両方を解するにも関わらず、この和製英語の意味が分からないという、なんとも奇妙な状況に陥り、その不思議な状況故に苦笑させられてしまう。

 誤解しないで欲しいのが、私はここで、和製英語の是非について論じるような気はさらさらなく、逆に海外に暮らしている日本人として、日本語の変遷の様子を少し俯瞰しながら興味深く見ているというのが正確なところだ。私は言葉は生き物、少しずつ、なおかつ確実に変化するものと理解している。脇道にそれるが、漫画や習慣雑誌から国語辞典に載せたい言葉を探すというこの記事は、動き変わる言葉や新しい言葉をすくい上げるアプローチの一つとして、大変興味深いものだと思う。

 カタカナ英語や和製英語について考える時にいつも思い出すのが、私の祖父である。神田生まれ、神田育ちの江戸っ子で、技術者だった。存命していれば今年2016年に100歳になるが、あの年代には珍しく、私とは違って英語に加えてドイツ語もでき、ヨーロッパを一人で周遊旅行したりした人だ。また中国語は読書きができて、よく中国人の友人に中国語で手紙を書いていたのを覚えている。この祖父が、私が大学生だった1990年前半当時80歳は優に超えていたが、ちゃきちゃきの江戸っ子なまりでの電話での大学時代の友人との会話の中で、「あいつはオミットしよう」と言ったのをよく覚えている。当然ながら、当時の若者(私)は全く使わない言葉だが、文脈からすると、「あいつは無視しよう」という意味で使っていたようだ。また、たまにではあるが、ドイツ語がカタカナ英語(カタカナ独語というべきか)的に祖父の日常会話に出てきたのを覚えている。これは明治・大正時代の日本文学作品でもたまに見られるもので、当時の国際関係を背景に、ドイツ語習得者が日本のインテリ層に多かったことをうかがわせる。更に考えてみると、当時外国語を日常会話に取り入れるというのは、それこそハイカラの極致であったろうし、インテリだけがその意味を解せたわけだから、知識をひけらかすようなニュアンスもあったはずだ。

 また少々脇道に逸れたが、何が言いたかったかというと、「ディスる」を初めてネット上で聞いた(読んだ)時の驚きとまたその意味不明感に眉根にしわが寄る感じと、祖父の「オミットする」という言葉を聞いた当時の「なにそれ?」と思った感覚は、時代と言葉と使っている人の年代こそ違っても、全く同じなのだ。当然といえば当然なのだが、なんだか面白いと思う。

 だからこれからも新しい和製英語を見るにつけて「なにそれ?」と眉根にしわを寄せて困惑こそすれ、海外生活が始まった10年以上前から変化が止まった私の日本語をある意味指標として、これからの日本語の変遷をおもしろく観察していきたいと思うのである。
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