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英語、外来語、カタカナ英語、そして和製英語

 普段の生活は100%英語で過ごしているので、日本語に触れるのはインターネットで日本語の記事を読む際だけである。たまに日本の家族に電話を掛けたり、日本語でメールを書いたりする以外は、自発的に日本語で書いたり話したりする機会が全くない。また、最後に帰国したのが2012年の夏で、それからかれこれ2年半経つから、新鮮な「今の」日本語に触れなくなってしばらく経つ。

 海外生活が長くなると、否応なく日本での流行や流行りの言葉に疎くなってくる。流行りの言葉も、ネットに(かつ私が目を通すサイトに)浮上してくると、流行り言葉として認識できても、その意味をくみ取るのが難しかったりする。流行り言葉というのは面白いもので、もともとその言葉と用途が生まれた文脈を知らないと、本当の意味を共有できないのことが多い。一番いい例がテレビのコマーシャルや広告などから派生したもので、これは年代によって見ていたテレビ番組によって、世代間ギャップが生まれるのが同じで、元ネタを見ていないとどうしてもその言葉の含有するニュアンスや雰囲気まで楽しんだり共有したりということができない。

 他の流行り言葉としては、英語が元ネタになった言葉も多い。例えば、「ディスる」という言葉。2015年からネットで見かけるようになった言葉だが、相当な数の用例を読むまでその意図する意味がよく分からなかった。この言葉は今に至るまでも敢えて検索していないのだが(笑、恐らく、「悪し様に言う」、「良いことを言わない」といった意味合いで使われていると解釈している。

 「ディスる」の元になったと思われる、"Dis"という英語の接頭語(接頭辞)も、もっと元をたどればラテン語由来である。英語、フランス語やイタリア語等の知識が多少ある人ならば、この接頭語から「ディスる」の意味を推測することも可能だが、そうでなければこのカタカナだけをぱっと見て意味を推し量ることは不可能だろう。

 外国語が元になった流行り言葉は、普通の日本語会話の中で使われるようになった途端、その由来は忘れ去れれて、日本語の言葉の一つとして使われるようになる。こうして入ってきた言葉(ここで一旦、外来語と呼ぶことにしよう)には、その後の変遷に異なる路があると思う。一つはカタカナ英語として使われる場合。「レスペクトする」という言葉がいい例だろう。元の英語の言葉や意味はほぼそのままに、(当然ながら)日本語のカタカナの発音で使われるものだ。もう一つが和製英語である。「ディスる」という言葉は和製英語の一派に分類できると思われるが、日本語の文脈のなかで使われていくうちに元の外国語にはなかった形(例えば省略形)、また異なる意味合いで使われるようになったものだ。和製英語は、日本人が和製英語だと認識していない場合が多く、元の言語(多くの場合、英語)で使おうとしても本人が意図する意味では全く意味が通じないケースが多々ある。ひどい場合には、もともとの言語に言葉として存在しないということもある。上記、異論もあるかもしれないが、私個人の分類である。

 私のような海外在住者とっては、後者の和製英語が曲者なのだ。日本語を英語の両方を解するにも関わらず、この和製英語の意味が分からないという、なんとも奇妙な状況に陥り、その不思議な状況故に苦笑させられてしまう。

 誤解しないで欲しいのが、私はここで、和製英語の是非について論じるような気はさらさらなく、逆に海外に暮らしている日本人として、日本語の変遷の様子を少し俯瞰しながら興味深く見ているというのが正確なところだ。私は言葉は生き物、少しずつ、なおかつ確実に変化するものと理解している。脇道にそれるが、漫画や習慣雑誌から国語辞典に載せたい言葉を探すというこの記事は、動き変わる言葉や新しい言葉をすくい上げるアプローチの一つとして、大変興味深いものだと思う。

 カタカナ英語や和製英語について考える時にいつも思い出すのが、私の祖父である。神田生まれ、神田育ちの江戸っ子で、技術者だった。存命していれば今年2016年に100歳になるが、あの年代には珍しく、私とは違って英語に加えてドイツ語もでき、ヨーロッパを一人で周遊旅行したりした人だ。また中国語は読書きができて、よく中国人の友人に中国語で手紙を書いていたのを覚えている。この祖父が、私が大学生だった1990年前半当時80歳は優に超えていたが、ちゃきちゃきの江戸っ子なまりでの電話での大学時代の友人との会話の中で、「あいつはオミットしよう」と言ったのをよく覚えている。当然ながら、当時の若者(私)は全く使わない言葉だが、文脈からすると、「あいつは無視しよう」という意味で使っていたようだ。また、たまにではあるが、ドイツ語がカタカナ英語(カタカナ独語というべきか)的に祖父の日常会話に出てきたのを覚えている。これは明治・大正時代の日本文学作品でもたまに見られるもので、当時の国際関係を背景に、ドイツ語習得者が日本のインテリ層に多かったことをうかがわせる。更に考えてみると、当時外国語を日常会話に取り入れるというのは、それこそハイカラの極致であったろうし、インテリだけがその意味を解せたわけだから、知識をひけらかすようなニュアンスもあったはずだ。

 また少々脇道に逸れたが、何が言いたかったかというと、「ディスる」を初めてネット上で聞いた(読んだ)時の驚きとまたその意味不明感に眉根にしわが寄る感じと、祖父の「オミットする」という言葉を聞いた当時の「なにそれ?」と思った感覚は、時代と言葉と使っている人の年代こそ違っても、全く同じなのだ。当然といえば当然なのだが、なんだか面白いと思う。

 だからこれからも新しい和製英語を見るにつけて「なにそれ?」と眉根にしわを寄せて困惑こそすれ、海外生活が始まった10年以上前から変化が止まった私の日本語をある意味指標として、これからの日本語の変遷をおもしろく観察していきたいと思うのである。
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